学校からの通達は、やっぱり守るべきだったか。

 雑賀孫市は、同級生としてこれから3年間を一緒に過ごして行くはずの仲間の群れを見て、合格発表の後配られたプリントの内容を、どうやら安易に考えていたらしいという事を悟った。それと同時に、一緒に行こうかと云ってくれた母親に『どうせ大したことないから来なくていい』、と断ったことを後悔した。
 今日は新入生に対する物品販売日。広い食堂にひしめく見知らぬ同級生達は、みな一様に親や兄弟、友達と二人連れで、そのそれぞれが大きな荷物を持っている。分担しているから何とかなっているものの、女子生徒1人なら絶対に持てないだろうと思わせるほどの分量である。
 ただ持って歩くだけならともかく、行く先々で書類に記入したり金を払ったりする関係上、荷物を置いたり持ったりを繰り返さなければならない事が、ここから見ているだけでもよくわかる。孫市も一応プリントでの指示通りに大きなスポーツバッグは持ってきていたが、とても入りきるものではない。今から母親に来て貰おうにも、孫市が同行を断ったため通常通り仕事に行っている。弟は中学生なのでまだ学校だし、友達に連絡するにも、孫市は財布とスポーツバッグの他は何も持っていなかった。
 仕方がないから、慌てずに買い物が出来るくらい空いてからにしようと、孫市は食堂の前に置かれたベンチに腰掛けた。

 中学の制服の、閉めておいた詰め襟のホックを外す。息苦しさから解放され、孫市は溜息を吐いた。
 今年は暖冬で、もう桜が咲き始めている。体育館と校舎の間に植わっている年代物の桜をぼんやりと眺めていると、いきなり視界を遮る顔が生えてきた。
「あんた、連れは?」
 降ってきた低い声に慌てて振り返ると、そこには見たこともないほど大きな男が立っていた。
 五厘刈りを更に上回る、野球部顔負けに剃り上げられた頭。白地に赤と黒のラインの入ったジャージに茶色いオヤジサンダル。どうみても高校生には見えないが、その顔に浮かんでいる笑顔だけは妙に愛嬌がある。
 恐らく体育の教師か何かだろうとあたりを付けた孫市は、一応敬語を使っておくことにした。
「…いません」
 その体育教師は孫市の隣の空いたスペースに腰を下ろすと、そうかい、と云った。
「中学は?」
「W中」
 孫市はここから3番目に近い中学の名を挙げた。
「W中か。すぐそこだな」
「はい」
 何が面白いのか、この教師はにこにこしながら孫市の顔を見る。どうにも居心地の悪さを感じ、何か話さなくてはと孫市は考えた。
「で、何か用っすか」
「用があるのはあんたの方じゃないか?」
 思いも寄らなかった言葉に、孫市の語尾が跳ね上がる。
「俺?」
「荷物持ち。必要だろ?」
 校舎の窓ガラスに映るベンチには、身長162センチ55キロの黒い詰め襟を着た中学生と、恐らく2メートルはある馬鹿でかいK1ファイターのような男が映っている。ジャージの上から見ただけだが、体重も100キロは下らないだろう。
 間違いなく荷物持ちには最適な相手だろうが、教師相手にはいそうですかとも云いにくい。
「でも、重いから」
「重いからこそ、荷物持ちってのは必要なんじゃないのかねぇ」
「悪いし」
「言い出しっぺは俺だ。そうだろう?」
 云うことはいちいち尤もだが、先生に荷物持ちなんてさせてもいいものか。まだ孫市が迷っていると、大きな影が立ち上がった。そして腕をぐいと引かれ、気が付いたら立ち上がっていた。
「ほら、行くぞ。こういうつまらんことはさっさと片付けて、折角の長い春休みを満喫するに限るぜ?」
 強引な手に引きずられるように、孫市はよたよたと──不本意だが歩幅が違いすぎる──小走りに歩き出した。
「セ、センセイ」
「うん?」
「俺、ちゃんと歩くから。手」
「ああ、悪りぃ悪りぃ」
 これまた大きな手に握られていた右手首が解放される。やれやれ、と溜め息をついた孫市の肩からするりとスポーツバッグを抜き取った教師は突然ああ、と大きな声を上げた。
「そういえば、まだ名前訊いてなかったな」
「雑賀…雑賀孫市」
「ああ、B組のな。変わった名前だから覚えてる」
 って、クラス発表まだだったか。そう云って豪快に笑う。かと思うと、不意に神妙な顔をして顔を寄せてくる。
「俺から聞いたって内緒にしてくれよ。大した秘密でもないのに、五月蠅い先生がいるんだ」
 孫市が頷くと、ぱっと笑顔を浮かべた。
「俺は前田慶次。前田でいいぞ、先生なんて呼ばれるのは性に合わない」
「…はあ」
 それ以外にどうしようもなくて、孫市が曖昧な同意を口にしたその時。 「前田さーん!」
 体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の上から、濁声が降ってきた。赤と白のストライプは、ラグビーのユニフォームだろうか。同じ服を着た3,4人の上級生が手を振っている。
「今度は男か? 相変わらず手が早いなぁ!」
 そのうちの1人が、一緒にいる孫市がぎょっとするような事を云い、げらげらと笑う。だが、大勢の新入生と保護者の前でとんでもないことを云われている『前田さん』は悠然としていた。慌てず騒がず、笑顔で2階に手を振っている。
「おうよ。今年の新入生は面白い奴が多そうでなぁ」
 彼らはぎゃははは、と賑やかな笑い声と共に、遠慮も何もない言葉をばらばらと落としてくる。
「そこの新入生、気を付けろよ! 前田さんリコンしたばっかりで飢えてっから、襲われるかもしんねーぞ!」
「ダメ、俺、涙出てきた。あー苦しい」
 腹を抱えて爆笑して大騒ぎしているラグビー部員達を止めるでも怒るでもなく、前田先生はぽりぽりと髪のない頭を掻いた。
「子供襲うほど飢えてねぇっての。あんまり新入りからかうなよ」
「わかってるって!」
 再び『前田さん』に手を振って、賑やかな笑い声はあっという間に去っていった。唖然として立ちつくしている孫市の肩に、あの大きな手がぽんと乗せられる。
「悪いな、多分悪気はねぇんだあいつらも。びっくりしたかい?」
「…い、いいえ」
 この状況でそれ以外の返事が出来る15歳がどのくらいいるのだろうか。実際かなりびっくりしたのを押し隠して否定した孫市の内心を知ってか知らずか。
「そうかい。じゃ、行くか」
 孫市は背中にぽんと当てられた手に促され、大勢のひしめく食堂に足を踏み入れた。








 HDの隅から引っ張り出して来た高校生孫。半年以上前のものなので書いた本人も忘れてる事が多々あります(汗)
 男の子が高校の3年間でびっくりするほど背が伸びる、というのが好きなので孫市も小さいです。これから年に10センチ以上のペースで伸びる予定です。
 前田先生は坊主のバツイチ。悪ガキどもに愛されている先生らしからぬセンセイです。