街道は相変わらず賑やかだった。
忙しそうに行き交う人々の顔は、つい昨日まですぐ近くで戦いがあったことなどもう忘れてしまったかのようだった。
「…忘れちゃいないのは俺たちだけってことかねぇ」
そう呟いた男の無精髭だらけの顎には、まるで髭剃りにでも失敗したような真新しい傷があった。男の傍らに何気なく置かれているのは装飾も見事な鉄砲。ふくらはぎを隠すほどに長い濃緑の陣羽織、その左右の胸には鳥の紋が染め抜かれている。
もう少しよく見ればその鳥は三つ足の烏──つまり八咫烏であり、この男が何者なのかを雄弁に物語っている。
この国で三本の指に入る鉄砲集団、雑賀衆を束ねる鈴木一族の頭領で、名は重秀。本名よりも雑賀孫市という名の方が通りが良いが、本人は別にどちらでも構わないらしい。
昨日の戦でも雑賀衆は最新兵器である鉄砲の威力を存分に見せつけた。負け戦だったにも関わらず、その弾幕で織田の精兵を本陣に近付けさせなかった。それどころか、降伏決定後も孫市は単独で織田信長を狙撃してみせた。残念ながら信長を負傷させるだけに止まったとはいうものの、陣の奥深くに鎮座している総大将を傷つけることは、通常なら不可能だ。それは織田軍の士気をたとえ一時的にでも低下させる効果はあった。その状況を利用し、孫市は一揆衆の撤退を支援し、最後の一人が逃げ切ることを確認するまで退路を死守してみせた。
だが、ここでこうして茶屋の緋毛氈の上でぼんやりとしている姿からは、昨日の働きぶりは想像も付かない。派手な格好をした、ただの極楽とんぼな鉄砲撃ち、といった風情である。
「はい兄さん、お待たせ」
「ああ。ありがとよ」
女性を愛することを己の天分と勝手にわきまえているらしい孫市は、茶と団子を持ってきた茶屋の婆にも片目だけ閉じてみせるのは忘れない。これが若い娘であればその手でも取って話しかけるのであろうが、流石に腰の曲がった老婆にそこまでする事はないらしい。
からからと笑いながら店の奥へ消えた婆を見送って、改めて街道へと視線を戻す。
運ばれてきた三色の団子に手を伸ばすと、それだけの動作で身体がギシリと軋んだ。
「…ちっ」
俺としたことが。
団子の刺さった串をしっかり口に運びつつ、孫市は昨日の戦を思い出す。
あんなに殴られたのは久しぶりだった。その男との出会い頭、凄まじい矛の一撃を何とかかわしたものの、こんなのを相手にしてたら死ぬ、と本気で思った。
顔だけはやめてくれと冗談で云ったら、その後は本当に顔『だけ』は一切手を出されなかった。そう云う前に振るわれた矛に顎を少し切られただけである。
勿論、その分身体はボロボロにされた。今持っている銃も、そのとき持っていた物ではない。まさに常識はずれな攻撃を受け続けた結果、銃身が曲がって使い物にならなくなったのだ。
『信長がそんな甘いことを許すはずがあるか』
その男──前田慶次はそう云った。今では孫市にも、その言葉が真実であったことがよくわかる。
確かに、信長はそんな甘さを持った男ではない。尾張のうつけと呼ばれていた頃から現在まで、あれはとんでもない男だということは孫市も噂では聞いていた。だが、降伏を勧めたときも、まだあれほどまでの男とは思っていなかった。だから降伏を勧めた。だが。
宙を舞う照恵の首を見た瞬間、孫市は己の認識の甘さを思い知らされた。最初から降伏など受け入れるつもりなどないのだ。だからこそ、一人でも多くの人間を逃がしたいと思った。逃げなければ殺される。情が通じるような相手ではないのだ。
圧倒的な戦力の差を埋めるのに手っ取り早いのは『総大将の死』だ。そして、それを成し得る能力を孫市は持っていた。だから、孫市は狙い撃つに適した場所を探し、発射の準備をして銃を構えた。
だが、その黒光りする甲冑をまとった胸に狙いをつけた瞬間、まだ己の認識は甘いのだということがわかった。
あれは『魔王』だ。苛烈にして残酷、自分で魔王を名乗ってみせる程の強烈な自負心。それがその姿から発せられた気となって辺りを満たしている。瘴気すら感じさせる重苦しい空気の中、それでもその心の臓を狙い撃とうと孫市が愛用の種子島を抱え、引き金に指をかけ、ゆっくりと力を込めはじめたその時。
その底無し沼のような目が不意に孫市を見た。引きずり込まれそうな暗い輝きに、柄にもなく背筋がゾッとした。思わず引き金を引く手元に僅かな力がこもり、微かにぶれた弾道は、結果的に甲冑に弾かれた。肋骨のひとつやふたつは折れているはずだが、結局負傷させる程度の結果しか得られなかった。
「よくもまあ止めてくれたもんだ」
力尽くでも止める、と云った男の、赤裸の誠意がきちんと伝わっていたからこそ、孫市は照恵と同じ末路を辿らずにすんだ。用心して少し離れていたからこそ、逃げることが出来たのだ。全身を青痣だらけにされたことはともかくとして、孫市は本当に感謝していた。
戦の前に遇ったのはここだった。美しい娘に話しかけたはいいが見事に振られ、退屈して地面に座り込んでいた孫市に話しかけてきた、馬鹿でかい馬に乗った、馬鹿でかい男。唐獅子のように派手な金の頭に緋色の陣羽織。はだけた胸は男も見惚れるほどの隆とした筋肉が覆い、腰には注連縄と大きな鈴。歩くたびにがらんがらんと五月蠅かろうに、一向に気にした風でもない。これこそ傾奇者と云わずしてなんとする、と思わせる風体にもかかわらず、不思議と愛嬌のある笑顔。そのつり上がった大きな眼は、人なつこい大きな犬を思わせる。
「前田…慶次、か」
「呼んだかい?」
後頭部に降ってきた声に、孫市は弾かれたように声のした方向を振り仰いだ。そこには、つい今思い浮かべていたものと寸分違わぬ愛嬌のある笑顔を浮かべた、やたらと大きな男が立っている。
「さっきから呼んでるのに、ちっとも気が付かないからどうしたのかと思ったぜ」
振り返った瞬間浮かべていた孫市の真剣な表情が、すぐに崩れる。片頬でニヤリと笑い、団子を持っていない方の手で、とんとんとこめかみを叩いてみせた。
「ああ、悪い。考え事してたんだ。…喰うかい?」
孫市の態度が好意的であることに満足したのか、前田慶次は目の前に差し出された団子を受け取った。
「頂こう」
***
「思ったより元気そうだな。重畳重畳」
端から見ていれば、とてもつい昨日は敵同士で、しかも直接殴り合いをしていた者同士には見えないだろう。そのくらいのんびりと、慶次は茶を啜っている。当然自分の注文したものではない。先に座っていた孫市も、その隣で空を見上げつつ団子を放り投げては口で受ける、という子供のような食べ方をしている。 態度同様暢気な科白を吐いた慶次を、見ることもなく孫市は最後の団子を放り投げて喰らう。口の中の団子がなくなってから、ようやく呆れたような返事が返ってきた。
「御陰様で体中が痛いんだけどな」
湯飲みのかわりに手にした串が、慶次の手と比べれば大きめの爪楊枝程度にしか見えない。やっと新たな客に気付いて店の奥から出てきた婆に、自分用の茶と団子三人前を頼みつつ、慶次はさも意外そうに目を見開いた。
「贅沢を言うな」
ちらり、と横目で見る孫市に、慶次は真顔で続ける。
「力尽くでも止める、と先に云っておいた筈だが」
力尽くで止めると云っても、慶次には殺してでも止める、という気は全くなかったのだろう。それが証拠に殺傷力の高い矛を普通に振ったのは最初だけで、後は主に矛の柄や膝、たまに肘で腹やら腰やら足やら腕やらを強かに殴られた。
防戦一方になってしまっていた孫市の、鳩尾に奇麗に入った一蹴りで勝負が決まった。胃液を吐き、抵抗を諦めるまでの間に孫市が振り回した銃剣は全て槍の柄で弾かれていた。接近戦での力の差は火を見るより明らかだったとはいえ、今までの戦歴の中では最低な負け方をしてしまった。
結局、怪我したのは俺だけじゃねえか
はあ、と溜息を吐いて、孫市はごろりと緋毛氈の上に横になる。幸い他に客はおらず、迷惑になることもない。
空が青い。視界の隅には収まりの悪い金。
「そう云う台詞を吐く奴はいくらでもいるが、本当に力尽くで止めるのはあんたくらいだ」
「そう誉めるな」
にぱ。そんな音がしそうな程満面の笑みを浮かべた顔を見ていると、信長をし損じた事などどうでもよくなってきた。というより、思い悩むことが馬鹿らしくなってきた。
「照れるなよ、でかい図体して」
横になったまま新しい串に手を伸ばしていると、突然慶次の顔が近付いてきた。半ばのし掛かるような接近は、孫市の顔から二尺ほどの距離でようやく止まった。が、その位置から大きな目が穴の空くほど見つめてくる。少し、というかかなり居心地が悪くなってきて、孫市は無意識に自分の顎に触れた。
「何か付いてるか?」
「その傷」
「あんたの矛」
孫市はそこについている傷を人差し指で軽く撫でた。風を切る音がした、あの最初のひと振りでついた傷。咄嗟に体を引いたが、ほんの僅かに刃が触れた。あと少し反応が遅ければ、ここでこうして茶を飲むことも出来なかったかもしれない。
「いつだ」
「最初のが避けきれなかった」
途端に申し訳なさそうな表情になった慶次は、びたんと両掌を合わせて頭を下げる。本当に表情が豊かな男だ。
「そりゃ悪かったなぁ。ここの払いは俺がするから、勘弁してくれ」
二尺の距離が一尺に縮まりそうな勢いに、これ以上後退出来ない状況の孫市は『とにかくどいてくれるなら何でもいい』という気持ちになった。ついでに、これがゴツい男じゃなくて可愛い女の子だったら。そう思うことも勿論忘れない。
だが、いくら嫌でもでも簡単にそうとは云わないのが、己をより高く売り付けようとする傭兵気質というもので。つい孫市はもったいをつけてしまう。
「俺の玉の肌に傷付けといて、茶と団子で済まされるとはな」
孫市の口から出たその言葉に、ひょい、と慶次は起き上がり、何故か腕組みをして真剣に悩み初めた。男、しかも七尺の大男に接近されても少しも嬉しくない孫市は、今のうちに起き上がっておくことにする。よっこらせ、と座って慶次を見ると、眉間に皺が寄っていた。
「…何なら身体で払ってもいいが」
慶次の口から絞り出された案に、孫市は呆れた。女ならともかく、男の顔に掠り傷を付けた程度でここまで真剣に悩んでみせるのもどうかと思うし、大体『身体で払う』と云ってもお互いの立場というものがある。孫市にしては珍しく、至極常識的な反論をした。
「俺は当分本願寺だし、織田側のあんたに手伝って貰うなんて訳にもいかないだろ」
「そうさなぁ」
うーんうーんと悩み続ける慶次の姿を見て、ふう、と孫市は本日二度目の溜息を吐いた。どうやらこの玉の肌を安売りするしかないようだ。
「仕方ないな。ここの団子で勘弁してやるさ」
再びにぱっ、と音がするほど急激に満面の笑顔になった慶次は、孫市と一方的に肩を組み背中をばしばしと叩く。
「そうか! いやぁ、あんたいい男だ。さあ、好きなだけ喰ってくれ」
打ち身と筋肉痛で痛む背中を馬鹿力で叩かれ、目の前には団子が山になった皿を突き出され。抵抗する気も起きなくなった孫市は、諦めて新たな団子を手に取った。
ホント、何なんだこいつ。
本日3本目の団子に食いつきながら、孫市はちょっとだけこんな全身が痛い日にこんな馴れ馴れしい馬鹿力と出会ってしまった己の不運を呪った。だが、この男とはこの先何度も会うだろう、そういう予感もした。
その予感は、不思議と孫市の頬を緩めさせた。この男となら、また出会っても面白い。今度は、昨日みたいに一方的にやられはしない。
漠然と感じる不思議な感慨に、孫市の指先はいつしか、薄く盛り上がっている傷跡をまた撫でていた。
実はこれが初めて書いた戦むそ話だったりします。まだサイト開設も考えてなかった頃の話です。
この頃はまだ脳味噌が腐女子モードに切り替わってなかったので、ただの仲良しです。『身体で払う』という美味しいキーワードも文字通りの意味にしか活用されてないので…。今ならもうちょっと何とかできたのに。書き足したので倍ぐらいの長さになりましたが、お友達テイストは変えませんでした。
傷あとの『あと』は、本当は『痕』の方が好きです。