桜の花が牡丹雪ならばこれは細雪。純白の小さな小さな花びらが、風に吹かれて宙を舞う。
酒の白さより尚白い花びらが、手元の杯に落ちてきた。花ごとそれを呷り、そのまま空を見る。満月は白々と辺りを照らし、青くさえ見える白い粒が舞っている様は夢幻のようだ。
***
常ならぬ姿を見せる空に見惚れていると、草の上に落とした手が何かで濡れた。
「…っ、慶次!」
孫市は、大きな瓢箪を抱えてこちらに差し出している男を睨み付けた。どうやら、空いた杯に酒を注ごうとして零してしまったらしい。
それはそうだろう。自分で飲み干した杯を、空と解っていて水平に保とうという努力を孫市がするはずもなく。黙ってその傾いた杯に酒を注げば当然零れる。
当然の帰結として、瓢箪の口から落ちてきた酒は杯の面を滑って、その下にある孫市の手を濡らすことになる。
「おっと、こりゃ失敬」 「失敬で済むか! この莫迦男が」
酒に濡れた手を舐めながら、孫市は悪態を突いた。酒を零すなと何度云っても一向に改まる気配のないこの男は、実はわざとやっているのではないかと今初めて思った。
それはこのあとの展開が概ね同じ傾向を示しているからであって。今朝丁寧に剃り上げたばかりという毛のない頭に白い点をいくつか貼り付けて、慶次は肉食獣の笑顔を見せた。
「確かに勿体ないねぇ」
そう云いさしたかと思うと、孫市が舐めている、酒に塗れた指をぺろりと舐めた。そして愉しそうに笑う。
「旨い」
「あんた莫迦か」
「そう莫迦莫迦云うな」
振り払われないのをいいことに、慶次は酒の流れた跡を丹念に舌で追い掛ける。これもいつもの展開だ。だが、肘まで達したところで急に舐めていた腕が消えた。慶次の非難がましい視線の先で孫市は引っ込めた腕を使い、強風に転がり始めた杯を再び捉える。
物欲しげにひとつ舌なめずりをした慶次だったが、孫市がひとりで瓢箪を傾け始めたのを見ると、一応この場は諦めたらしい。己も懐から茶碗を引っ張り出し、それで酒を飲み始めた。
「旨かったのに」
慶次はまだ諦めきれないのか、孫市の髪に付いた花びらを茶碗を持たない方の手でひとつひとつ取り除きながらそう云った。その声音が本当に残念そうで、孫市は思わず笑ってしまった。
「上手くはなかったけどな」
お返しに坊主頭に張り付いた花びらをとってやり、孫市は横になった。再び闇に浮かぶ月とほの白い花びらと、その隙間に時折瞬く星が眼前に広がった。
「盛ってばかりいないで、たまには空でも見てみろよ。なかなかいい眺めだぜ」
舞い上がる白と降る月光。弱々しく瞬く星々。朝夕はまだまだ肌寒いが、かなり過ごした身には肌脱ぎくらいで丁度いい。
これで隣にいるのが可愛らしい娘ならば云うことはないのだが。現実に孫市の隣にいるのは、馬鹿でかい男であるというのが非常に口惜しい。
まあ、これはこれでなかなかに可愛いところのある男なのだが。これこのように、子供のような顔をして逆さにした瓢箪を揺すっている姿など。
「酒が無くなった」
だが、口に出した言葉には少しも可愛いところはなかった。昼間酒屋で半分ずつ金を出し合って買った筈の酒は、どうやら八割方飲まれてしまったらしい。
「…もう飲んじまったのかよ…」
思わず溜息が出た。酔いに起因する──本当はそれだけではないのだが──機嫌良さは消し飛んでしまい、怒りよりも諦めが先に来る。
「済まん」
「謝るくらいなら飲むなよ…」
こんな時間に酒屋に行ったところで酒を売ってくれるはずもない。そもそも久々の再会を祝そうと、季節外れの月見にこじつけてわざわざ山道を半時も登ってきたのだ。今更山を下るのも面倒くさすぎる。
「悪かった」
「もういい。寝る」
暑いからと適当に脱ぎ捨てたままの愛用の陣羽織をたぐり寄せ、孫市はそれを引き被った。目を閉じ、慶次に背を向ける。本気で怒っているわけではないが、一応『怒らせた』と思わせておかないとこの莫迦は、すぐに自分の都合のいい方に解釈する癖がある。
「孫市ぃ」
「…」
「悪かったって」
「…悪いと思ってるなら誠意を見せろ、誠意を」
慶次は何も言わずに立ち上がった。かと思うと、転がったままの瓢箪をひっ掴んで駆けていく。走り去る足音を聞いて慌てて起き上がった孫市が見たのは、既に人影のない木立だけだった。遠くから、松風のものと思しき嘶きが聞こえてくる。
「…あの莫迦」
今更追いかけたところで、松風の俊足に追いつけるわけもなく。孫市は腹の底から溜め息をつくと、再び横になって天を見た。少し風が弱まった今、宙を舞う白はぐっと数を減らしていた。
半年振りに逢ったというのに。
孫市は再び溜め息をつく。
とにかくあの男と何かをしようとすると、何事もなく終わるということがない。可哀想に、今頃里の酒屋は馬鹿でかい傾奇者に叩き起こされている事だろう。
それでも、また逢えて良かった。と、思う。
こんなことを云ったらあの莫迦は間違いなく調子に乗るから、云ってやる気はないが。
***
ぼんやりとただ月明かりに青い空を眺めていた孫市の耳に、賑やかな馬蹄の音が飛び込んできた。
またこれから一騒動だ。自然と浮かんでくる笑いを噛み殺しながら、孫市は身を起こし、瓢箪を片手に駆けてくる「莫迦男」を迎えることにした。
宙を舞う白い花は雪柳をイメージしてます。春の花なので季節はずれですが。
なんだかんだ云って孫市は慶次に甘いですね(^-^;) 莫迦莫迦云ってますが、そこはそれ。
一応、『孫市の一時里帰り後に再会』という話です。約束の上の再会なんですが、やっぱり嬉しいみたいですよ。当然慶次はストレートに嬉しさ全開ですけど。